右の図は、下記の資料より引用した秩父札所十四番長岳山今宮坊の霊験記の錦絵です。
上部には霊場境内の風景画が描かれ、下部には霊場の縁起にまつわる逸話と挿絵が描かれています。
「観音霊験記」(埼玉県立浦和図書館所蔵資料)
著者名:歌川広重(二代)、歌川国貞/画,服部応賀/編
出版者:〔山田屋庄次郎〕
出版年:江戸末期
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右の図の「観音霊験記」の下部の「霊場の縁起」については、次のような逸話が
記述されています。
武田信玄の家臣石原宮内
當山の霊験数多あるなかに、信玄の家臣山形三郎兵衛の組下なる石原宮内は、常に観音を信じ、軍法にもくわしき
者なりしが、時田合戦のとき軍配をくり違ひしにや、進退わろきゆへ、信玄大いに怒りて、忽ち備へを立直して、
終に勝利となりしが、後日、宮内某の備へにて負けにはならず、信玄公の短慮なりと人に語りしこと、信玄の耳に
入り、殊の外に腹立て、軍法の備へはたとへ陳平張良とて操損じはあるものなれば、咎めも言付ざるものを、
よしなき言葉をもって主に疵をつくる段不届きなり、これによって死罪に定めらる。其日は既に十七日なれば、
宮内は他念なく観音を信じて、翌日御縁日死ぬことせめてのたのしみと覚悟してけるに、その夜信玄乃夢に、
十歳ばかりなる小坊主来りて、吾は宮内のもの宮内をひとえに助け給へとあれば、佛勅を感じて急ぎ山形に命じて
助けしのみならず、近習へ召出して恩賞を賜りしこと、誠に有がたき霊験なり。
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