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札所16番 無量山 西光寺

所在地
住所:埼玉県秩父市中村町4−8−21

観音霊験記
 右の図は、下記の資料より引用した秩父札所十六番無量山西光寺の霊験記の錦絵です。 上部には霊場境内の風景画が描かれ、下部には霊場の縁起にまつわる逸話と挿絵が描かれています。
「観音霊験記」(埼玉県立浦和図書館所蔵資料)
 著者名:歌川広重(二代)、歌川国貞/画,服部応賀/編
 出版者:〔山田屋庄次郎〕
 出版年:江戸末期

 右の図の「観音霊験記」の下部の「霊場の縁起」については、次のような逸話が 記述されています。
圓比丘
當寺の住僧圓比丘、一夜月を感じていたりしに、ふしぎなるかな、あたりの草むらより、幽然と老婆の姿あらわれ 出て、我は古へ優婆夷なりしが、貪欲甚重の報によって、阿鼻獄に堕し、それよりさまざまに生きかわり死に かわれどもその業いまだ尽きず、吾子孫にしかじかの者あれば、これを彼等に告げて、吾菩提を弔わせ給へ。 又當寺へやがて霊験あらたなる観音乃像をみちびけば、何卒その像にむかひて、吾冥福をいのり悪趣を転じて 楽國におもむかしめよといひ終わりて、其儘姿は失ぬ。圓比丘称名念佛して、子孫の者へもつげて弔ひたるに、 果たして遠からずに、他方より観音の霊像来りたるは、かの幽魂のみちびきし者ならん。今の本尊則是なり。


秩父三十四所觀音霊験圓通傳
 秩父札所の縁起については、江戸時代の延享元年(1744年)に発行された、沙門圓宗の「秩父三十四所観音霊験圓通傳」が 最も詳しい資料でしょう。慈眼寺から同書の復刻版 「秩父三十四所観音霊験円通伝」 (柴原保教 1976年) が発行されています。また、同書の翻刻版が「埼玉叢書 第三巻」(国書刊行会 昭和45年) と 「建部綾足全集 第6巻」(国書刊行会 昭和61年) にそれぞれ収録されています。 それには、西光寺について、以下のような縁起が記されています(以下、翻刻版より一部抜粋、ひらがな表記に変更して引用)。

第十六番 無量山西光寺(御堂三間四面南向)
本尊聖觀音 立像御長九寸 行基菩薩御作
此尊は徃古他郡に有しが、佛の告に依て此地に移給しとぞ。其年暦を知ず。中頃諸州兵亂に依て所とし て陵夷せざるなく、寺塔發壊せずと云處なかりしかば、住侶もなく、此寺も無人の境と成しが、漸く逆 浪静りて後、近きあたりの祝子此堂を守りけるとぞ。其後亦白衣舎の守護する事年あり、其後此無量山 の地に移り奉りぬ。又曾此寺の住侶に圓比丘となん云し僧有り、秋の夕、月の入方を詠て、堀河入道右 大臣の入月を見るとや人の思ふらん心を掛て西に向へばと讀給ひし如く、月日の入方を見ても終焉の期を 心に掛て、佗念なく眞實念佛し、法然上人の西へ徃く道一つだにたがはずば骨と皮とに身は成ばなれと 詠ぜしぞ、能き吾心の師にてこそあれど信心をはげまし給ふ。折から木々の木ずへも峯の葛葉も、心あ はただしう争ひ散て、木枯の吹はらひたるに、鹿は籬の本に彳て山田の引板にも驚かでうち鳴くも憂がほ に、艸むらの蟲の聲もより所なげに鳴よはり、枯たる艸の下より老たる女のいと物かなしげなるが杖に すがり、忽然と現れ、我久遠過去の舊一人の優婆夷也しが、妬毒飽迄深く、貪欲甚重にして惡と云惡せ ずと云事なく、僧を罵、法を誹て慢心たくましかりしが、一朝露命消て直に阿鼻獄に堕して刧を經る 後、夜叉餓鬼の類と成、或は野干の屬、諸大惡獸となりて三悪趣を廻り、漸人界の果を得たりと雖も、 此里の孤獨貧窮の家に生れ、亦罪業の火に薪を加へ、僧物をかすめ法財を奪しかば、再古里の奈落に皈 て苦痛語するに堪えず。毛血律師が毛孔より血を流せしも(毛血律師の事新婆娑論七十六の九丁、 法苑珠林の三十五の二丁めに見へたり)吾身の上に思や りぬ。師あはれんで吾が子孫に教えて、此苦を拔て樂を與へよ。此處後年觀音を安置すべし。其像に向 て吾冥福を祈りてたべと。言葉の下よりかきけして蕭颯たる秋風耳。圓比丘掌を合て彼れがために稱名 念佛して夜明ぬれば、件の事を彼子孫に告ぐ。未幾程もなく當寺へ觀音堂を引移し來る事、彼幽魂の語 りしに露たかはず。各來會して念佛修行せしとぞ。定て知る彼亡魂永く悪趣を離て樂邦に徃詣せし事を。 其佛本願力頼もしからずや。言を寄、有信の輩共に一苦城を出ん事を勸む。


無量山西光寺
 札所十六番、 無量山西光寺の札堂(旧観音堂)の由来については、境内に下の写真のような案内板があります。それには、 次のように記述されています。
市指定史跡 札所十六番
  無量山 西光寺の札堂(旧観音堂)
 このお堂は、もともとは寺の南側の現在、墓地となっている辺りにあり、享保年間 にこの場所に移転し、もとは「大中山満福寺」と言う寺に併合したものと、古文書、 半鐘銘、石灯籠の刻字、道標等から裏付けられます。
 更に遡ると、このお堂は長享二年(一四八八)の古番付(法性寺蔵)よると現二十四番 が十二、西光寺十三、現二十三番が十四となっていて(写真)巡拝路の合理性、 “無量山”という山号、円通伝の“此尊ハ往古、他郡ニ有リシガ云云”の記述等から 二十三番と二十四番の中間、現在の大字別所辺にあったのではないかと思われます。
 そして、この地に移して十六番とした事は、とりもなおさず現在の三十四ケ所、 ひいては日本百観音の成立という大変重要な意味を持つこととなります。 それは江戸の時代へ向かう潮流の一つであったのではないかと思われます。 果たして、江戸期に入り元禄頃になると多くの秩父の札所観音堂が江戸庶民の支持 を得て改修築されます。 十六番本尊は後に現本堂に移され、お堂は“札堂”として残されます。
 即ち、このお堂は長享番付当時の唯一最古の観音堂の遺構と思われます。お堂に残 されている種々の造作の跡から元来の姿と種々変遷を経た事が想像されます。
 又、堂内より元禄、享保等の紀年を有する多くの納札が発見され、その納札を打ち 付けた柱の無数の釘跡が歴史を感じさせます。
          昭和40年1月25日 秩父市教育委員会指定

無量山西光寺の札堂(旧観音堂)の由来。


西光寺の山門。


西光寺の山門の右手前の記念碑。


西光寺の山門の左手前の参詣案内。


西光寺の本堂。


西光寺の本堂の近接写真。


西光寺の縁起図。


西光寺の佛足石。


西光寺の筆子塚。五輪塔。


西光寺の筆子塚の由来


西光寺の札堂。秩父札所最古の遺構。昔の木の納札を打った釘跡が残る。


西光寺の札堂の内部。


西光寺の金毘羅大権現。


西光寺の回廊堂。


西光寺の回廊堂の由来。


西光寺の回廊堂の内部 1。


西光寺の回廊堂の内部 2。


西光寺の回廊堂の内部 3。


西光寺の回廊堂の内部 4。体の悪い所を治してくれるというオビンズル様。


西光寺の六地蔵。



西光寺の六地蔵の由来。


西光寺の酒樽大黒。


西光寺の酒樽大黒様。


西光寺の酒樽大黒天の由来。


西光寺の観音像。


西光寺の地蔵様。


 最終更新日時: 2011年8月9日 Copyright (c) 2011 Antillia.com ALL RIGHTS RESERVED.