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札所27番 龍河山 大渕寺

所在地
住所:埼玉県秩父市大字下影森411

観音霊験記
 右の図は、下記の資料より引用した秩父札所二十七番 上影森 龍河山 大渕寺の霊験記の錦絵です。 上部には霊場境内の風景画が描かれ、下部には霊場の縁起にまつわる逸話と挿絵が描かれています。
「観音霊験記《(埼玉県立浦和図書館所蔵資料)
 著者吊:歌川広重(二代)、歌川国貞/画,朊部応賀/編
 出版者:〔山田屋庄次郎〕
 出版年:江戸末期

 右の図の「観音霊験記《の下部の「霊場の縁起《については、次のような逸話が 記述されています。
行脚僧寶明
宝明、諸国をめぐりて當山に来りし所、難病によって蹇ければ、余儀なく起臥て、西方を念じ飛行の鳥をみてうらやみ、 終に七年の春秋を送りしが、一日弘法大師勅を受けて諸国を経歴する砌り、爰に來たりて、宝明が蹇て、當国の順礼 かなはざるをあわれみて、大士の霊像を刻して与へ玉ふがゆへ、宝明歓喜踊躍して、是を本尊に安置しければ、宝明をもって 當山の第一祖とす。宝明の蹇たるは全く救世大士の利益にて、弘法に値偶させしめんが為なれば、上祥をもって、吉事を まねきし霊験、奇なるかな上思議なるかな。又當山に誓願石という霊石あり、その因縁長ければ爰に畧す。


秩父三十四所觀音霊験圓通傳
 秩父札所の縁起については、江戸時代の延享元年(1744年)に発行された、沙門圓宗の「秩父三十四所観音霊験圓通傳《が 最も詳しい資料でしょう。慈眼寺から同書の復刻版 「秩父三十四所観音霊験円通伝《 (柴原保教 1976年) が発行されています。また、同書の翻刻版が「埼玉叢書 第三巻《(国書刊行会 昭和45年) と 「建部綾足全集 第6巻《(国書刊行会 昭和61年) にそれぞれ収録されています。 それには、大淵寺について、以下のような縁起が記されています(以下、翻刻版より一部抜粋、ひらがな表記に変更して引用)。
第二十七番 龍河山大淵寺(御堂三間四面南向)
本尊聖觀音 御長一尺後光佛に三十三體之觀音の尊像 弘法大師御作
伏惟、當山の來由は、昔此里に寶明と號せし隠者ありき。其生處何の地と云事をあかさず、破笠爛筇、 東に走西に到り南去北來心に任て六十餘州足も止めず、此地に來て郡中に霊境餘多ましますに信心まさ りてや、形の如くの草の庵結て暫く雲水の膝を曲しより、夏は蓮に功徳池の想を觀じ、冬は梢の雪に寶 樹寶林を心にかけ、此影森に七年の春秋を送しが、思かけず難病を受て蹇ければ、今は早行脚の心も絶 て、此處に生涯を果すべき覺悟にて行住坐臥、西方を念じて佛號を唱ふるの外、亦餘儀なかりける。或 夜一僧來て一宿せん事を乞ふ。元より惜むべき舎かは、案内にや及ぶ 此方へと請しければ、客僧座定 て庵主に云らく、此郡古へは武蔵國と隣て知々夫の國と云し、其郡中霊場列たてり、沙門いまだ順禮せ ざるや。寶明が曰、囚人は赦を夢み、飢たる者は食を夢み、蹇たる者立つ事をわすれす。某元來行脚を 好み、日本の霊區残りなく廻りて拜せざる堂塔もなく、詣でざる神社もなかりしが、今は膝行ても行事 上叶、然れども足下の仰を聞ときは歩行心にまかせし間に普く順禮せざりし悔しさ、今更臍をかむと雖 も為方なし、君吾を憐給はゞ吾に慈愊を垂て順禮の功徳にむかふ事あらば示給へと。落涙限りなかりけれ ば、旅僧の曰く、吾は當今の勅を受て諸國を經歴して佛法を弘通する空海とは吾事也。吾今一體の觀音 を造立して汝に與へん、亦此地は是より後各種々の因縁に依て、都合卅四所の霊場郡中に列るべし、本 尊も各権者の彫刻なるべし 吾豫其霊地を知て本尊を彫刻し安置せし處も有、亦後世の権者來て開基す べき地も其像の形相も吾れ能く知、汝蹇たるを憂る事なかれ、今彫刻する處の本尊の後光佛に現て拜せ しめん、是汝が為にする耳ならず、豫め卅四所と定りたる未來記と思ひ、當郡の霊場何れも小縁の事に 非、其地未開闢先より、本尊の御容迄定り有しと信仰の心を生ぜしめんが為也と。忽ち觀音の尊像を 彫刻し給ひ、後光佛に三十三ヶ所の本尊を悉く現給へり。寶明奇異の思をなし、吾蹇すとも師の教にあ らずんばいかでか三十四所の霊地を知らん、況いまだ時至らずして開闢せざる霊地の本尊を豫拜する事 古今未曾有の上思議也と感歎の涙墨染の袖も朽ぬべし。夜己に五更に至て、大師寶明に別を告て庵を出 て、亦他方有縁の地に趣き給ふ。寶明御跡を伏拜み誠に空海は大日遍照の化身と、王宮國土閭巷の凡民 まで仰ぎ奉れり、誰か信敬せざらん、今此草庵に來て、如此霊像を彫刻し給ふ、何ぞ吾一人拜すべけん や、普く諸人に結縁せしめんと、未明に里人を集て件のあらましを語れば、人々感涙を催し、後光佛を 拜し、扨は此後も猶此郡中に権化の人往來して、數ヶ所の霊地を開き給ふらん穴貴と、此國に住らん者 は殊更に後の世もいと頼有心地ぞかしと、各たがいに力をはげまし、一宇を建立して本尊を安置し奉り 寶明を推て當山第一祖とし、此後連綿として今に至れり。されば寶明一度蹇たるは其身の上祥と云べけ れど是に依て大師に値遇し、彫刻の霊像を永く此地に安置し奉り、しかのみならず後光佛を以て開闢以 前に霊像を拜し、三十餘尊の威徳を顕しぬれば、上祥かへって吉事と変じ、其身のみかは今日の衆生普く 霊像に結縁せしむる事、誠に上可思議の因縁ならずや。佛在世に頻婆沙羅王、太子阿闍世のために七重 室内に幽閉せられ、憂に沈給ひしかど、此縁に依て終に阿那含を成し給ひ、末世造惡の凡夫得生極樂の 道を開き給へると等し。此等の事跡を思めぐらし今世若し心憂き事出來るとも、此世は假の舎に一炊の 夢見るが如し。苦樂ともに暫が程ぞと思とりて、永き後の世を第一として小罪をも犯さゞれ。若今生を 徒に過さば何を以てか後世の苦を脱れん。恐るべし慎むべし。


龍河山大渕寺
 札所二十七番、龍河山大渕寺の由来については、下の写真のような案内板があります。それには、 次のように記述されています。
市指定史跡 札所二十七番
  龍河山 大渕寺
 この札所は、明治・大正と二度にわたる大火で堂宇をすべて焼失しました。 その後本堂観音堂を兼ねた仮堂として再建されていたが、平成七年裏山を 切り開き、三間四面、宝形屋根の観音堂が再建されました。
 本尊は聖観世音です。門前には市指定史跡影森用水路跡もみられます。
 その昔行脚の僧宝明、諸国をめぐり、この地に霊境の多いのにうたれ、 春秋七年を過ごし思わぬ足の病となり行住坐臥して念誦するのみとなり ました。弘法大師この地に至りてこれを愊れみ一体の観音を刻みて与えました。
 宝明は悦び吾一人拝するはもったいないとし里人に伝えて一宇の堂を建て 本尊をまつり、宝明を第一祖にしたという縁起があります。
         昭和40年1月25日 秩父市教育委員会指定

大渕寺の由来


大渕寺の山門


大渕寺の境内の附近案内図。月影堂の横の遊歩道を登って札所26番の岩井堂へも行けます。


大渕寺の本堂


大渕寺の鐘つき堂


大渕寺の月影堂


大渕寺の月影堂の縁起図。行脚僧宝明 昔行脚の僧宝明は、諸国を巡り此の地が霊場の多いのにうたれ、 春秋七年過し、思わぬ足の病となり、
弘法大師此の地に至ってこれを見、一体の観音を刻みて与えました。 宝明は悦び吾一人拝するはもったいなしと里人に伝え、一宇の堂を建て
本尊を祀り宝明を第一祖にしたという 縁起があります。



大渕寺の延命水


 最終更新日時: 2011年8月22日 Copyright (c) 2011 Antillia.com ALL RIGHTS RESERVED.