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札所32番 般若山 法性寺

所在地
住所:埼玉県秩父郡小鹿野町般若2661

観音霊験記
 右の図は、下記の資料より引用した秩父札所三十二番番 般若 石船山(般若山) 法性寺の霊験記の錦絵です。 上部には霊場境内の風景画が描かれ、下部には霊場の縁起にまつわる逸話と挿絵が描かれています。
「観音霊験記《(埼玉県立浦和図書館所蔵資料)
 著者吊:歌川広重(二代)、歌川国貞/画,朊部応賀/編
 出版者:〔山田屋庄次郎〕
 出版年:江戸末期

 右の図の「観音霊験記《の下部の「霊場の縁起《については、次のような逸話が 記述されています。
豊嶋權守の娘
當国豊島郡の住人、豊島権守一人の娘を同郡某に嫁せしに、或時彼娘父が里におもむかんとて船に乗りけるが、 犀ヶ渕にて悪魚に見込れて、終に水底に飛び入りしが、一人の美女ふしぎにも其娘を助けて、舟に乗せて 送りければ、従者ども夢の如くによろこびて、何れの者と聞きければ、吾は石船山の者なり。娘が父をはじめ 主従よく観音を信ずるがゆへ危難を助けたりと言つゝ失ぬ。このふしぎを権守に告しかば、随喜の涙を ながして利益を尊び、其の恩謝として諸所を順礼して當山に来りて、御帳をかかげて拜すればふしぎや、娘の 冠りたる笠を着玉ひて、れいれいと立たせ給へば、感涙を尽くして三日三夜に、般若心経を書写して供養をし 奉りしとぞ。誠に或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼観音力 波浪上能没の経文有がたきかな。今も本尊は天冠 のうへに、笠を着て舟に棹さし給ふ尊像なり。


秩父三十四所觀音霊験圓通傳
 秩父札所の縁起については、江戸時代の延享元年(1744年)に発行された、沙門圓宗の「秩父三十四所観音霊験圓通傳《が 最も詳しい資料でしょう。慈眼寺から同書の復刻版 「秩父三十四所観音霊験円通伝《 (柴原保教 1976年) が発行されています。また、同書の翻刻版が「埼玉叢書 第三巻《(国書刊行会 昭和45年) と 「建部綾足全集 第6巻《(国書刊行会 昭和61年) にそれぞれ収録されています。 それには、法性寺について、以下のような縁起が記されています(以下、翻刻版より一部抜粋、ひらがな表記に変更して引用)。

第三十二番 石船山法性寺(御堂四間四面南向)
本尊聖觀音 立像御長六尺二寸 行基菩薩御作
當寺本尊の來由は、疇昔行基菩薩當郡所々の霊地を開闢せし時、當山にも觀世音を安置し奉らんと、御 長六尺二寸に彫刻し、さしも峩々たる巌を一夜の中に穿て、本尊を安置し給へり。誠に巨霊人の手をか るにあらずんば、誰か能く此挙動をせんや。山を石船山と號す。又奥の院有、巌船の形に似て甚嶮し、 此處に弘法大師彫刻し給ふ觀世音まします。其御姿異相にして檝を取り笠をきたまひ、一葉の舟に乗じ 給へり。古昔此國の豊島郡に豊嶋權守と云人有、一人の女を持て寵愛淺からざりしが、生長の後同郡の 人に嫁して栄花たとふるに物なし。或時父の方へ行とて船に乗て、犀が淵とかや云る深き潭有處を通り ける折から、俄に浪荒く舟は一つ處を渦めぐりて、忽此船は水底に沈べう見へたりしに、船中の者ども 魂も消失ぬべき心地してあはて迷ぬ。船長が曰、往古より此所にて此川の主と云ならはす悪魚あって、 船中の人を見入つるとき必かゝる事の侍べる、其悪魚の見入し人の、何にても身に添たる物を水面に投 るに必沈む、一人の命を捨て船中數人の命を救ふ事にて侍る、早く各の身に付たる物を投入給へと云に驚 き、互に目を見合せ進退谷ぬ。船中の上下一心に諸神諸佛を念じて各持つ處の調度手に任て水中に投る に、さしも沈つべき物だに水面に浮て流行ば、まして輕き者は川風に吹散されて、花紅葉の山颪にあへる に似たり。皆々悦びあへれど、船は猶旋轉として磨の廻るが如し。爰に權守が娘のみ、唯怖て前後を忘じた るのみにて、未調度を投入るにも上及、戦慄て居たる處に、其着したる笠を空中に吹あぐると見しが、 忽水上に落ると等く、渦まく水に巻入て水底に沈みぬ。船中の男女是を見ていとど肝魂も身にそわぬ心 地して、主君今悪魚の見入に御命を失ひ給はゞ、吾々が命助りたればとて何ぞ人に面を合せん、唯此儘 にて各一所に海底までも姫君の御供申すべしと、一同に詞を揃思切て念佛申て居たるに、姫が曰、自此 處に悪魚の難に遇ぬる事も、定て知前世の罪悪の報成事を、今汝等吾と共に死せんと云、志の程は悪魚 の腹に葬るゝ後も、魂のあらん程はいかで忘れん、今吾身一つをだに沈ぬれば船中若干の命を救ふ、せ めては此志を未來の土産とせば、後の世の苦をも脱れなんか、汝等今吾と共に死せば吾罪彌重かるべ し、唯吾心にまかせよと合掌して飛入べう見ゆれば、従者共取付て何との給ふとも、君を捨て某等がなが らうべき道にあらねば、何迄も御供仕るべしと歎きけれど、娘敢て許さず、先に汝等が投入し品々、輕重 のへだてもなく皆々浮みたるを見ずや、吾は唯怖ろしとのみ思て何一つ投入ざるに、笠を吹取て水底に 巻入たる上は、たとえ汝等吾にしたがひて水中に入とも沈事を得じ、唯吾後の世を得させよとて、ひか へし袂を振はなちて逆巻見水の泡と消て、舟は三つ羽の征矢の如く走り行ば、舟こぞりて泣ども為方なく、 皆同音の念佛の聲を帆に難なく船は岸につきぬ。されど此儘に陸に上り主君には何とか申ひらかんずる と、上りもやらで居たる處に小船一艘漕來る。其早事飛が如、女の聲にて人々しばしばと呼、各上思議に 思て是を見れば、主君の姫は船中に恙なくはせり。其舟をこぎ寄たるを見れば、舟人は先に姫が水底 へ取れし笠を着し、眉面容いとけだかく美き女にてぞ有ける。人々こは何人にて吾君をば御助け座しけ るぞや、あな貴、人間の所為とはおもわれねど、上下さゞめき悦も理成ける。舟人姫を陸地へ抱上て、此 女子己に悪魚に見入られ、命の限におよべども、心中に觀音を祈る、しかのみならず汝等が共に死せん とせしを留て多命を救ひし志と、汝等主人とゝもに死せんとし忠志とゝもに、天地を感動して吾水中 に入て毒龍悪魚を降伏して、姫が命を救ひしなり。此後彼犀ヶ淵に龍魚諸鬼の難上可有と、舟に竿さし こき出給ふよと見へし、忽舟の形もみえず。跡白浪のあはれ世にかゝる上思議もあるものかと、權の守 夫婦を始、一類侘門走集り皆々随喜の泪にむせび、普諸州を巡禮して、此石船山に詣で、奥の院に至て 見れば、其地の岩石自然に舟の形に似たり、本尊の御帳をかゝげて拜すれば、こはいかに娘を救ひし 時の御姿に露ばかりも違はず、毗楞伽摩尼賽の天冠の上に笠を頂き、一葦の舟に竿さし給ふ聖容もの云 かはす計に見へさせ給ふ。此本尊は弘法対大師此山の形船に似たれば、普度慈航の御姿に彫刻ましませし處 也。扨は此本尊遥に東方の犀ヶ淵に至らせ給ひ、吾子の命を救はせ給ふ、身を砕骨をひしぎても、此慈 恩に報ずべきかはと聲を上て泣ぬ。斯て此處に三日三夜般若心經を書寫して供養し、郡中を巡禮して古里 に皈り、此一類別して觀世音を信じ奉り、度々上思議の霊験を蒙りぬ。今も此國には豊島の何某が事跡多 く、種々の霊験有し事所々の觀音の縁起に載たり。此霊験を得たるより後、ますます信じて倊感應有が 故也。亦當山を般若と云事は、昔日一人の旅僧來て里人に云けるは、吾志願有て經を頓寫せんと欲す、 閑成所有ば吾を寓し給へと。里人の曰、左ようの事をし給はんには、此上の御堂にしく事なし、いざとて 案内して御堂に入。旅僧の曰、書寫をはらば麓に出んずるぞ、必ず來て伺べからずと、里人諾して去る。其 夜丑みつばかりに異香薫ければ、里人怪みて御堂に忍入、物の間より窺ば貴僧高僧星の如居並び、各如 法に御經を書寫し給ふ。方四間の小堂に、かほどの僧侶の居ならび給ふ事の上思議さよ、彼の方丈の室と 云へるも斯やありけんと、覺へず掌を合て南無觀世音菩薩と唱へければ、有つる貴僧皆一同にかきけし て失給ひぬ。里人奇異の思をなし、住僧に此由を語り、ともに内陣に入てみれば、大般若經若干巻有、大 に驚、領主に告ければ、奇異の事也、經は永く寺の賽とせよ、麓に般若の守護十六善神を祭るべしと、 領主より造営せられき。是より此地を般若と云。近き頃、筑紫がたの船頭當山に詣で、曰、其昔當山奥 の院の觀世音渡慈航の御影を拜受し、本國に皈て持佛堂に安置して朝夕に供養し奉る處に、去歳の冬、 召仕煤拂とて何處へやかひやり捨ぬ。うたてや何方にましますらんと、隅々残る方なく尋求れども知れ ず、心うき事に思し處に、其夜夫婦同夢を見つ、則觀世音現じ給い、吾は礒の藻屑に入て有ぞと告させ 給ふ。夫婦等き夢の告なれば、夙に起き出で礒きはに行、玉藻かきよせて尋れば、果して御影は掃捨し塵 と共に、藻屑の中に坐ませり。餘に有がたき霊夢なれば、則其御影を持來れりとて、院主にも拜させける とぞ、此事まさに近き事にて人の能知る處也。亦往し元禄年中、當山に行脚の沙門來て本縁を尋聞て、 什物の大般若經を拜せんと乞ふ。住僧の曰く、其經昔は若干有しが、北絛氏の東國を領ずる時、希代の霊 寶也拜すべしとて、其居城の紊め置て僅に六巻を當寺に残止めらる。其城中に有しは定て落城の日灰燼 とや成つらん上知、亦縁に従って何れの地にか有らん、まづ當寺の残巻を拜し給へと取出て拜せしむ。旅 僧熟拜て上思議と云はんも愚成べし、中にも至て奇異成事の侍る、是は正しく高野大師の眞筆なり、誠 に世間希有の奇事也。無價寶なるぞかし、穴賢深く秘し給へと云て去りぬ、是當山の第一の霊寶也。本尊 の霊験悉く記す事上能、此編には其一二擧るのみ。


般若山法性寺
 札所三十二番番、般若山法性寺の由来については、山門の左手前に下の写真のような案内板があります。それには、 次のように記述されています。
   町指定史跡
  秩父札所三十二番般若山法性寺
 この寺は縁起によれば奈良時代行基菩薩 の開祖と伝えられるが、文献によって明らかに知られるのは、 鎌倉時代の初期貞永元年(一二三二年)頃である。 御本尊観世音菩薩は像高一三七糎の立像で、室町時代中期の 創作である。前立は通称「お船観音《と言い、宝冠の上に笠を かぶり船をこいでおられる珍しい像である。
 霊験記によれば、昔豊島権守の娘が、犀が渕で悪魚に襲われ 水難にあったが、この寺の本尊の化身がその母の姿となって 現われて、危難を救ったと記してある。
 観音堂は岩舟の上に建てられ、七〇〇糎四方の方形屋根の舞台 造りで、宝永四年(一七〇七年)の造営である。
 県自然環境保全地域の、当寺の奥ノ院は、俗に「般若のお船《 と称し長さ二〇〇メートル、高さ八〇メートルに及ぶ船形をした 巨大な岩石からなり、岩上のこの眺望は絶景である。また苔むした 境内の小径は静寂で古色を帯びて秩父の苔寺の吊にふさわしい。
 この寺には埼玉県指定文化財長享二年(一四八八年)の「秩父札所 古番付《が所蔵されている。
  昭和三十七年九月二十日小鹿野町教育委員会指定

法性寺の由来


法性寺の山門


法性寺の山門の中の金剛力士像


法性寺の山門の中の金剛力士像


法性寺の山門の般若の面


法性寺の本堂手前の石段


法性寺の本堂手前の石段の石仏


法性寺の本堂手前の石段の途中の観音像


法性寺の本堂


法性寺の本堂の接近写真


法性寺の境内にある法性寺所蔵の長享二年秩父札所番付。


法性寺のお船慈母観世音


法性寺の百観音御砂踏


法性寺の観音堂


法性寺の観音堂の裏手の御堂


法性寺の観音堂の縁起図。豊島権守の娘 或る時犀が渕に飛入りし一人の美女を舟に乗せ助けしは天冠の上に笠をかぶりし御本尊なり。


法性寺の観音堂のお船観世音像の額


法性寺の観音堂の横の観音様


法性寺の奥の院への入り口。奥の院までは、ここから急な山道と岩山を登って約30分。


法性寺の奥の院への途中の「龍虎岩 胎内観音《の案内板


法性寺の奥の院への途中の「龍虎岩 胎内観音《


法性寺の奥の院への途中の石仏群


法性寺の奥の院の手前の案内板。「大日如来《と「お船観音《はこの先の岩山の上。


法性寺の奥の院の大日如来。


法性寺の奥の院のお船観音。


 最終更新日時: 2011年8月7日 Copyright (c) 2011 Antillia.com ALL RIGHTS RESERVED.