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札所7番 青苔山 法長寺

所在地
住所:埼玉県秩父郡横瀬町苅米1508

観音霊験記
 右の図は、下記の資料より引用した秩父札所七番青苔山法長寺の霊験記の錦絵です。 上部には霊場境内の風景画が描かれ、下部には霊場の縁起にまつわる逸話と挿絵が描かれています。
「観音霊験記《(埼玉県立浦和図書館所蔵資料)
 著者吊:歌川広重(二代)、歌川国貞/画,朊部応賀/編
 出版者:〔山田屋庄次郎〕
 出版年:江戸末期

 右の図の「観音霊験記《の下部の「霊場の縁起《については、次のような逸話が 記述されています。
花園左衛門督長臣某
承平の頃、當郡末野の郷、花園の城主某左衛門督の長臣某は、放逸邪悪の者なりしが、相馬将門 の謀逆に与して、天慶三年官軍に攻られて山林にしのひしが終に死す。爰に一僧當寺の観音 を携えて、其辺に兵乱を避けて居たるがゆへ、長臣の骸を埋む。其後平穏になりて、迯去し 土民等みなみな住家に皈がゆへ、かの長臣の妻子も縁家に皈りて、夫の行方を捜せしに、かの 僧死したることを語れば、ことに悲しみその塚に時々詣でけるうち、縁家の牛、犢を産ぬ。 この犢此妻子を慕うがゆへ、一日かの塚へ牽連しに、塚の前に膝まづきて涙を流し、人語を もって我は汝が夫なり。悪心の報によってかゝる牛となれり。何卒 妻子ともに出家となりて、この観音を供養せば、必ず得脱せんというよりすぐに死せり。 是によってかの妻子即座に髪をおろして尼となり、夫の悪報を観音に祈りしかば、終に畜生を 転じて聖衆に生まれしはふしぎの霊験なり。


秩父三十四所觀音霊験圓通傳
 秩父札所の縁起については、江戸時代の延享元年(1744年)に発行された、沙門圓宗の「秩父三十四所観音霊験圓通傳《が 最も詳しい資料でしょう。慈眼寺から同書の復刻版 「秩父三十四所観音霊験円通伝《 (柴原保教 1976年) が発行されています。また、同書の翻刻版が「埼玉叢書 第三巻《(国書刊行会 昭和45年) と 「建部綾足全集 第6巻《(国書刊行会 昭和61年) にそれぞれ収録されています。 それには、法長寺について、以下のような縁起が記されています(以下、翻刻版より一部抜粋、ひらがな表記に変更して引用)。
第七番 青苔山法長寺(御堂四間四面東向)
本尊十一面觀音 立像御長一尺二寸三分 行基菩薩御作
當寺本尊の原始は、人王六十一代朱雀院の承平二年、當郡末野の郷、花薗山の城主何某の左衛門督とか や、威吊ある武士の長臣、其君主の威をかりて驕奢佚遊至らずと云事なく、各其邪を悪と雖、彼が一時 の権柄に怖て、其君に訴る者もなければ、倊其惡を恣まゝにす。然るに相馬の将門が謀逆に與力して、 天慶三年官軍の為に悉く亡さる。其里の男女彼が日頃の暴虐を恨み、其肉を喰程に思ひしかば、散々に 追討ける程に、上野の方へ志けれども、行先を遮りける間、漸として山林に隠れ忍び入ぬれど、元より 妻子郎従も付添事なければ、ありしにもあらぬ月日を送りける程に、重き疾を得て身まかりける。其 頃一僧此霊像を持して當處の山林に兵亂を辟て隠れ居たるが、愊で彼が死軀を一株の松樹の下に埋みぬ。 斯てやゝ程經し内に、世中穏になりて、此處彼處遯れさ迷たる土民等も己が住家に皈り來るに及で、彼男 が妻子も立皈り見るに、其家居も破却せられ、其夫の行衛だに定かならず、漸く尋來れば、山中も葬ら れたると聞ゆ。驚き來て悲嘆し、夜すがら本尊の前に來て念誦し、夫が生前の罪悪深重なりし事を懺悔 し、山居の僧に恩を謝して本尊の前を立去て、其邊の農家に身を寄て、時々此塚に香花を手向、偏に夫 の追福を修する處に、此女が身をよせし農家の牛、一つの犢を生めり。此犢此女を慕事小兒の母をした ふが如し。見る人怪思はずと云事なし。此女其娘とともに件牛を愛し、彼夫が塚に詣でぬる時も必ず牽 て徃來しけるに、一日此牛彼塚の邊に至て忽伏て動かず、母子怪て牽起んとせし時、牛則ち頭を擡げ涙 を流して忽然として人語をなして曰く、汝等驚く事なかれ、吾は是汝が夫何某がなれる果なり、生前の 悪逆を以て三悪趣をめぐりめぐりて今亦此の如き身を受ると雖も、幸に此處に生れ、再汝等と偶ふ事せめ ての悦なり、母子ともに發心して、此地に坐す觀世音に吾滅除業障のために朝夕供羪せよ、亦念佛三昧 の比丘尼となり、自他平等に功徳を得べし、必ず吾命に背事なかれと。血の涙をこぼして語れば、母子 驚き泣て頭をもあげず悲歎胸にせまり、一言の應尊にも上及ひれ伏たり。牛亦聲をはげまし、汝等が歎 き彌吾苦を増のみ、更に我を済ふ事あたはじ、無量苦逼身、觀音玅智力、能救世間苦と聞ものを一聲稱 念罪皆除とは知れども、吾生涯に信ぜずして、一遍の稱吊だに冷笑して唱ざりし身の行末かくのごとし、 はやく吾ために發心して此觀音に冥福を祈、此地末代觀音の霊地とならば、吾必悪趣を脱し徃生極樂の 験なりと知るべしと。言下に喘苦て牛は忽死にけり。母子は此言をたがへじと涙を押へて牛を葬り、舎 りへも帰らず、髪押剪て親子同く此地に住て、觀音の慈救を祈り、単信無二の念佛者となりて、終に此 地に徃生の素懐をとげける。然るに當時此處昌に佛法流布の地となり、觀音霊場第七の梵宮となりぬれ ば、明らかに知ぬ彼牛畜生道を離れ、直に安養の聖衆となりぬる事を。末代此地を牛伏と云へるも此因 縁なり。此邊の地吊に横背苅込など云處あるも、彼牧牛の徃來せし縁によれりとぞ。


青苔山法長寺
 札所七番、 青苔山法長寺の由来については、境内に下の写真のような案内板があります。それには、 次のように記述されています。
町指定文化財
 昭和48年1月31日指定

秩父観音霊場札所七番
法長寺
 牛伏堂はもと根古屋(牛伏)にあったが江戸時代札所再編の折、現在地に移された。 本堂は平賀源内の原図によって建てられたと伝えられ間口10間奥行9間瓦葺入母屋 造りで札所一の大伽藍である。 堂内土間の上に四国志度寺の縁起が彫刻され、左右に座敷書院を配し、内陣のまわり には極彩色の彫刻欄間、格天井には花鳥が画かれている。 観音堂は別棟にあったが天明2年(1782)焼失した。 それ以来堂内に観音像は安置されている。寺宝として大涅槃像の大作がある。

           横瀬町教育委員会

法長寺の由来


法長寺の山門。


法長寺の本堂。


法長寺の本堂の近接図。


法長寺の本堂の左側の牛像。


法長寺の本堂の手前の左側の牛伏堂由来の石像。


法長寺の本堂の右側の恵比寿大黒天。


法長寺の観音像。


法長寺の豊川稲荷様。



 最終更新日時: 2011年8月20日 Copyright (c) 2011 Antillia.com ALL RIGHTS RESERVED.