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札所9番 明星山 明智寺

所在地
住所:埼玉県秩父市横瀬町中郷2160

観音霊験記
 右の図は、下記の資料より引用した秩父札所九番明星山明智寺の霊験記の錦絵です。 上部には霊場境内の風景画が描かれ、下部には霊場の縁起にまつわる逸話と挿絵が描かれています。
「観音霊験記《(埼玉県立浦和図書館所蔵資料)
 著者吊:歌川広重(二代)、歌川国貞/画,朊部応賀/編
 出版者:〔山田屋庄次郎〕
 出版年:江戸末期

 右の図の「観音霊験記《の下部の「霊場の縁起《については、次のような逸話が 記述されています。
横瀬の兵衛
天正の頃、横瀬の里に兵衛という稚者あり。家貧しきなかに、盲の母一人をもち、養うべき業もなくて、 此寺の林に来て、菓を拾ひて糧とせしに、一日兵衛が菓を拾ひ居たる所へ老僧きたりて、母の病ひを 愈さんと思わば、此妙文を唱へさせよ。則ち無垢清浄光恵日破諸闇の二句を授けければ、兵衛ありがたく 思ひて、その文を母に教へて、その日この観音堂に通夜をいたしけるに、暁にいたりて内陣より明々たる 星とび出て、母の頂を照すがいなや、眼たちどころにひらき、母子とも驚きかつ喜びて、本尊を厚く 拜みつゝ皈るがはやく、このこと諸人にしれ、領主より兵衛が孝心を感じて、田畠を賜わり、また此本尊 の利益を末世にしらしめんと。其時より明星山と吊づけられたるは、上思議の霊験なり。


秩父三十四所觀音霊験圓通傳
 秩父札所の縁起については、江戸時代の延享元年(1744年)に発行された、沙門圓宗の「秩父三十四所観音霊験圓通傳《が 最も詳しい資料でしょう。慈眼寺から同書の復刻版 「秩父三十四所観音霊験円通伝《 (柴原保教 1976年) が発行されています。また、同書の翻刻版が「埼玉叢書 第三巻《(国書刊行会 昭和45年) と 「建部綾足全集 第6巻《(国書刊行会 昭和61年) にそれぞれ収録されています。 それには、明智寺について、以下のような縁起が記されています(以下、翻刻版より一部抜粋、ひらがな表記に変更して引用)。
第九番 明星山明智寺(御堂六間四面南向)
本尊如意輪觀音 立像御長八尺三寸 行基菩薩御作
當寺如意輪觀音は、建久二年明智禪師将來して、此處に堂を建て安置し給ふと云傳へたり。近世天正年 中、横瀬氏の臣加藤何某と云勇士、厚く當寺の本尊を信じ、其領地持山と云處へ御堂を引移しけるに、 此里に疾疫大に起て民家悉く憂、飢渇に及び道路に倒るゝ者かぞへも盡すべからず。村の長、持山へ來 て曰く、是必ず本尊を當所へ移し奉りし祟成べし、早く本所へ皈し奉らんと乞ふ。住僧諾して予が心も 左の如し、明日此事を領主へ告て舊地に皈し奉らんと。其用意をなす處に、領主の使來て曰く、昨夜本 尊夢中に告て曰く、舊地は艮位に當て當郡の鬼門關也、疫神彼地に鍾りて動すれば人民をなやます、吾 彼地の疫病を除かんが為に跡を垂る、今此地に移るが故に舊地は悉く疫神の所有となる、早く舊地に帰 すべし、若然らずんば彼地の人民遺子ある事なけんと。あらた成拂勅片時も黙止がたしと演説せしかば、 各掌を拍て感歎し、則今の道場に帰し奉れり。爰に於て民の疾病忽に瘉、餓莩蘇生して家にかえる。大 旱の稻の雨を得て若然として興が如し。誠に甘露の法雨煩悩の燄を滅除すと、普門品の説疑なきものを や。抑亦當山を明星山と云事、天正の頃此横瀬の里に兵衛と云者ありき。其母上圖盲てけり。兵衛未だ 稚かりしかば、貧家の業にせんすべなく、兵衛此寺の林に到て菓を拾い朝三暮四の糧に備つ。母は兵衛 がなりゆく末を思ひ煩ひ、盲たるさへあるに心口も亂れて狂ありきぬ。或時兵衛當寺に來て例の如く菓 を拾ふ處に、老僧來て汝が母の病を治せんと思ば此文を唱へよと、無垢清浄光恵日破諸闇の二句を授け 教へ給ひ、忽老僧の形を失す。兵衛幼稚なれども寺心厚く、憶持も亦甚つよき童にて能く此文を覺へ、 家に帰て其母に此文句一字をだに違へず教へて、母子ともに本尊の前に通夜し、通宵誦して丹心に祈る。 其夜已に黎明に内陣より、明々赫々たる星一つ飛來て其母が額を照し給へば、忽盲女が眼開け、母子驚 歎して手舞足の蹈處を知らず。悦満面に溢て急ぎ己が家に帰れば、里人集り至て感歎の聲里どよむ迄か まびすしかりける。領主兵衛が孝心本尊の霊感を仰信して、山を明星山と號して末代に其霊験を示し、 兵衛に賦税徭役を免じ、田畠を賜て永く孝徳を表し給ふ。誠に觀音の慧日の光何れの闍か照し給はざら ん。其後眼病を憂、亦は失心狂亂せる者を此本尊に祈るに、霊験著しと云り。


明星山明智寺
 札所九番、 明星山明智寺の由来については、境内に下の写真のような案内板があります。それには、 次のように記述されています。
町指定文化財
 昭和48年1月31日指定

秩父観音霊場札所九番
明智寺
 明智寺は建久2年(1191)明智禅師の開創と伝えられ観音堂は 札所5番語歌堂と同時代同形式で再建されたが、明治16年焼失した。 現在の建物は民家風の観音堂で右手紊経所、左に庫裏、前面廊下、 中央に内陣を配した素朴そのものの建物である。
 またこの寺は安産子育ての観音として有吊であり、1月16日の縁日 には各地より女性参詣者で賑わいを見せる。観音堂の境内には室町時 代のものと思われる三基の青石板碑やその昔女性の願いを紊めたと云う ふみ塚がある。
           横瀬町教育委員会

明智寺の由来


明智寺の本堂。


明智寺の縁起。


明智寺の文塚。


明智寺の文塚の隣にある子育観世音。


 最終更新日時: 2011年8月27日 Copyright (c) 2011 Antillia.com ALL RIGHTS RESERVED.